仏教を歩く 空海



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同行二人とは

同行二人(ドウギョウニニン)とは四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんたちにはいつでも空海(弘法大師)さんがついて一緒に歩いてくれている、という意味です。
仮に目に見えなくてもそう思う人のそばに空海さんが必ずいてくれていると思う旅のことです。

 

 

同行二人と思うからこそ、苦しい山道や階段も乗り切れるのかもしれません。
それが信心のなせる技でしょうか・・。

 

 

ただ、お遍路のいわれの話はあまり好きではありません。
遍路の旅の始りは伊予の豪族であった衛門三郎(えもんさぶろう)だと言われています。

 

 

ある日、門前に乞食坊主がやってきたので冷たく三郎が追い払うと坊主の持っていた鉢が地面に落ちて八つに割れた。
その夜から三郎の八人の子供が日に一人ずつ亡くなっていき、八夜にして全員の子供を失ってしまった。

 

 

「あの坊さんは弘法大師であったか‥」三郎は大師に謝らねばと考え、大師の後を追って四国中を歩く。
しかし大師には逢えずにいた。
しかもだんだん三郎の体も弱ってくる。

 

 

「このままでは生きてお大師様には逢えない」三郎は四国を反対に廻り出した。
これなら大師に逢えるはずだ。
三郎が大師に会えたのは伊予の道後であったが、もうその時は三郎は死ぬ寸前だった。
三郎は大師に抱かれて死んでいった・・、というのです。

 

 

弘法大師への信心については言うことがないのですが、そのきっかけが弘法大師を冷たく追い払ったというのでは料簡が狭い様な気がして・・。
例えば阿弥陀様は、南無阿弥陀仏を唱えれば全ての人をお救いになる!
仏教というか宗教はこうでなくてはと願うのですが・・。

 

 

ただ、詳しいことは分かりませんがキリスト教にしてもイスラム教にしても、発祥時の信心的なものは随分と錆びれ荒んで、今では紛争の種を撒き散らしている様な感じさえするのです。

 

その点、日本の仏教や神道は随分と鷹揚でのんびりした感じなので好きですね
神も仏もない、のではなくてあちこちに神や仏がある、いるという発想が素晴らしいのです。
そう思えば、他の考え方を退けてただ一神という凝り固まった考えから卒業できるような・・?

 

 

多少、不遜でしょうか?
四国八十八か所のお遍路の旅へ出かける時には、そんなことも考えてみたいと思うのです。